『あけ・つき・ゆき。』
春、田植えの季節が訪れた高麗の里の空を、
薄紅の鳥が群れを成して舞っていた。
だおだおだおと鳴き交わし、田に降り立っては水面を突付く。
その間を縫うようにほんわりと、小豆を煮る匂いが漂っていた。
薄紅の鳥──鴇が稲を踏み荒らさない様に祈って小豆汁を煮て食べる習慣が
いつの頃からかこの高麗の里にもあり、それは幼い耀次郎にとっても 馴染みのものだった。
小豆汁の匂いと鴇の鳴き声が耀次郎には田植えの季節を告げるものだったが、
その関連性については未だ判らなかった。
三歳の頃にこの里に来て、まだ二年しか経っておらず、
この里の長ともいうべき聖天の下にいる事から、里人との接触も少なく
育ったこの少年にとっては、里のこの様な習慣は未だに判らない事が多い。
小豆を煮る鍋から立ち上る煙と鴇の姿を見比べつつ、山菜の籠を抱えて
慣れた道を歩き庵に戻る。
そして木戸を開けていつもの様に声をかけた。
「聖天様、新佐先生、ただいま戻りました」
「おお、お帰り耀次郎。ご苦労だったね」
「いえ」
聖天がひょっこりと顔を出し、優しい笑顔で耀次郎をねぎらう。
その顔に、ふと耀次郎は先ほどの疑問を思い出した。
「……聖天様」
「何だね?」
「先ほど、里の人達が外で小豆を煮ているのを見ました」
「うん、この季節になるといつもそうだね。 それがどうかしたかい?」
「……以前から不思議だったのですが、どうしてあれで鴇が 追い払えるのでしょう?」
その関連性がどうしても判らないと、生真面目に小首を傾げる 幼子の仕草に聖天は破顔した。
「鴇の羽の色を思い出して御覧。うっすらとだけど小豆の様な赤色を しているだろう?」
「はい」
「小豆汁を連中に煮て見せる事で教えるのさ、『稲を踏み荒らしたら、
お前たちもこうして煮てしまうぞ』とね。
鴇はあの通りの色だから小豆汁を見て、驚いて逃げていくのさ」
「そうですか……」
今ひとつ釈然としないながらも──あの煮炊きの煙の中でも堂々と
田に降りていた鴇を見ていたから──耀次郎は頷いた。
「まあ、田植えの季節の楽しみの一つだよ。どうする、今日は うちでも小豆汁を煮て食うかね?」
その聖天の問いに耀次郎は少し驚いた表情をし、そしてちらと空を見て
「……いえ」と答えた。
「おや、そうかい? ならばまた今度にしようかね」
「はい」
そして新佐衛門が呼んでいたから行きなさい、と促して、聖天は耀次郎を
その場から退出させた。
その小さな姿が消えてから、聖天はくすくすと笑う。
彼が一瞬目をやった先にあったものに気が付いたからだ。
あの先にあったのは──空を飛ぶ鴇の姿。
「どれ、あの子に免じて、ここに来る連中だけは 追い払わないでいてあげようかね」
小豆汁は残念だがね、とそう呟きながら彼もまた庵に入っていった。
だおだおだおと鳴き交わし飛び交う姿は、ここにもある。
稲刈りを終えた田の道を歩きながら、耀次郎は高麗の里で見たものと
同じそれを仰ぎ見ていた。
「秋月、何を見ちゅう?」
傍らから護衛の相手が不思議そうに問い掛けた。
「いえ……」
呟き口ごもる耀次郎の視線の先を追い、彼は「鴇か……」と言う。
「きれえな鳥ちやな、ありゃあ」
そう言って嬉しそうに笑った。
「あれが空一杯に飛ぶと、どがな曇り空でも夜明けみたいに見える」
やき、わしはあれが好きじゃと。
そう言って笑う彼を見ながら、そういう見方もあるのかと感心する。
そして──この人に嫌いなものなどあるのだろうか、とも。
言われて見れば、確かにあの鳥は美しかった。
薄紅の羽を広げて空に飛び交い日の光に透かされた姿は、明け空の色に
世界を染める。
その度に落ちる羽もまた、明け空の色の雪だ。
彼等は落穂を拾っては気紛れに飛び跳ね、何かの驚いてはざあっと飛び上がり
だおだおだおと、あの声で鳴き交わす。
その様をただただ見詰める耀次郎を、彼もまた黙ってみていた。
だが、何かを思い付いた顔をすると突然、乾いた田に降りて鴇の群れの方に
奇妙な忍び足で歩いていった。
「龍馬さん?」
一体何をするつもりかと、慌てて追おうとすると振り返って口に手をやる。
そこで待てという事らしい。
何なんだと思いつつも観察していると、彼は手近にいる一羽にじりじりと 近寄っていった。
獲物を狙う猫の様だが──猫にしては身体も大きいし、動きも鈍すぎる。
無理がありすぎるだろうと、思いつつ半ば呆れながら見る耀次郎の前で、
果たして鴇は、彼の鼻先でざあっと飛び上がって行った。
「ああ、畜生! はやちっくとじゃったがやき!!」
地団駄踏む彼を見下ろして、だおだおだおと鳴き交わし、
からかう様にくるくると頭の上を回り、またその脇をすり抜けて鴇は
飛んだ。
「あー! 糞までしていく事ないろうが!」
馬鹿にされた上、糞までされたと羽織のその箇所を見ながら、また騒ぐ。
「……あのですね、龍馬さん……」
自分より一回りは年上である彼のその様に、 耀次郎は子供かと額を押さえて溜息をついた。
だが──彼は耀次郎に向かって破顔すると大声で呼んだ。
「まあええ。秋月、ちっくとこっち来い!」
「何ですか?」
「ええから来い、はよぅはよぅ」
「……はあ」
まあ、気が済む様にしましょうと内心で呟きつつ、耀次郎も乾いた田に
足を下ろして、彼の元に歩み寄った。
「……なんでしょう?」
近寄って見上げると、その手の上にぽんと何かが置かれた。
「戦利品じゃ、おんしにやろう」
言いながら、大きな手が耀次郎の手を離れ、
そしてそこに残されたものは──明け空色の風切羽が一枚。
「きれえやお? こういうもがを持っちゅうと、 しょうえい事があるんじゃ」
「そうなんですか?」
「そうちや」
不思議そうに尋ねる耀次郎に、当然とにっこり笑う。
「そういうものは……龍馬さんが持った方が良いのでは ないですか?」
例え運でも、身を護る一助になるなら──自分よりは彼の方が。
そう言うと大きな手でわしわしと頭を撫でられた。
「童の先にゃ、しょうえい事がのうてはいけん、
そしておんしは童じゃ。 おんしの先にも、しょうえい事がのうてはいけんのじゃ」
やき持っとけと、彼は言った。
その言葉の意味は判らぬまま、耀次郎はただ
「では御受け取りします」と言い、それ以上は聞かなかった。
光に透かした羽は、明け空色に染まって。
それは夜明けの色にも似ていて、確かに──美しかったから。
そして──……
あの日から三月経ち──耀次郎は一人、その道を歩んでいた。
周りは天地返しは終わったものの、まだ田植えにまではいっていない田。
そして、その上のどんよりと曇った空を飛び交う鴇の群れだ。
何も変わらない。
鴇の群れに飛び込み、子供の様に騒いだ彼がいない事以外は。
あの時、手渡された羽は何処かに行ってしまった。
──あれはきっと、彼が持つべきだったのだ。
あの日から、ぼんやりと何処かが麻痺した思考の中で、
耀次郎はそう考える。
鴇は舞い上がり舞い降り、遠目に見るとまるで跳ね上げられた雪の様で
それは──あの日の雪景色を思わせた。
目を閉じる。
雪を思わせるものは、痛いくらいにあの日を、そして己の無力と愚かさを 思い出させる。
もう、見たくなかった──何も。
五感など使命を果たす為だけにあればいい──凶星の光を見、
鼓動を聞き、刀を握る。それだけでいい。
もう、それ以外は何も欲しくない。何も必要ない。
だおだおだおだお──
鴇の鳴き交わす声が耳に響く。
だおだおだおだお──
その穏やかに響く太い声は、記憶の中の声に重なる。
『秋月、ちっくとこっち来い』
そう言って笑って手招きした声に──
それに誘われた様に、知らず足は田へと踏み込んでいた。
柔らかい土に足は埋まり、足袋の先を黒く汚す。
頭上では鴇が鳴き交わしている。
だおだおだおだお──
雪の様に、明け空色の羽がふわりふわりと舞い降りてくる。
無意識に手を伸ばして受け止めようとする。
だが、それはいずれも耀次郎の手を擦り抜けて落ちていった。
──その様子に知らず自嘲の笑みがこぼれる。
そうだろう──自分には、この美しい雪に触れる権利はない。
もう二度と触れる事もない、その必要も無い。
そう一人ごちて手を引っ込めようとした時、
ざあ──っと強い風が煽る様に吹いた。
だおだおだおだお──
鳴き交わす鴇達が、地上に空に大きく舞って。
その中に立ち尽くす耀次郎の上に明け空の雪を降り注ぐ。
不意に──ふわりと何かが掌に乗った。
それを確かめ、耀次郎は微かに目を見開く。
あの言葉が──蘇る。
『きれえやお? こういうもがを持っちゅうと、 しょうえい事があるんじゃ』
白い歯を見せてにっこりと笑い、乱暴に頭を撫でる大きな手と。
『おんしの先にも、しょうえい事がのうてはいけんのじゃ』
その言葉に俯き、きつく握り締める──
手の上に乗った、あの時渡されたものとよく似た。
美しい──夜明けの空の色に似ていると思った風切羽根を。
だおだおだおだお──
鴇は鳴き交わし空を行き交う。
それはあの時、彼が言った様に、どんな闇空でも美しく染め上げて、
夜明けを導くものの様に思えた。
「つきのまち」 風間翔 様より。
イラスト「雪」&「4番目のTOP絵」をもとに素敵小咄を書き下ろして
くださいました。感動と感謝の気持ちでいっぱいです。
こう、お腹を出してひっくり返り、シッポフリフリ状態でございます、私。
暑苦しいほどのパッション、風間さん宅に飛んでいけ〜(照)
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